【武田の里探訪】武田氏の氏神・本殿を信玄が再建の武田八幡宮

武田晴信(後の信玄)が再建した重要文化財の武田八幡宮本殿

武田晴信(後の信玄)が再建した重要文化財の武田八幡宮本殿

深閑とした森の中に武田の歴史を伝える建造物群

桜開花の時期に、一本桜として有名な山梨県韮崎市の「わに塚の桜」を訪れ、その圧倒的な存在感に触れると同時に、「わに塚の桜」の位置づく「武田の里」に興味をひかれるようになり、この度ようやく足を運ぶことができました。

わに塚の桜からわずか1㎞あまりの場所にあるのが武田氏ゆかりの武田八幡宮。

わに塚の桜を望む場所に、県指定有形文化財の武田八幡宮の二の鳥居があり、武田氏存命の時代へと誘ってくれます。

わに塚の桜を望むことのできる位置にある二の鳥居は県指定有形文化財。鳥居をくぐって参道を少し上ると石鳥居と総門が見えてくる。写真は下り方向

わに塚の桜を望むことのできる位置にある二の鳥居は県指定有形文化財。鳥居をくぐって参道を少し上ると石鳥居と総門が見えてくる。写真は下り方向

武田八幡宮に向かって上り方向の写真はこちらの記事に。

武田の里の歴史をひも解いてみると

氏神として武田氏が信奉し、武田晴信(後の信玄)が本殿を再建した武田八幡宮は、武田の里の歴史を伝える重要な建造物。

武田八幡宮石鳥居と総門。石鳥居と正面石垣は県指定有形文化財。脇の杉の巨木は市指定天然記念物

武田八幡宮石鳥居と総門。石鳥居と正面石垣は県指定有形文化財。脇の杉の巨木は市指定天然記念物

いくつもの文化財を有し、武田晴信の再建した本殿は重要文化財に、末社・石鳥居・二の鳥居・正面石垣・武田勝頼夫人北条氏祈願文は県指定有形文化財に、境内正面の杉と54本の樫は市指定天然記念物に指定されています。

武田勝頼公夫人願文も県指定有形文化財。武田勝頼公夫人が1582年(天正10年)、武田氏の武運等を祈願して武田八幡宮に奉納した願文。願文の甲斐なくその14日後に勝頼公は夫人、息子信勝とともに自刃

武田勝頼公夫人願文も県指定有形文化財。武田勝頼公夫人が1582年(天正10年)、武田氏の武運等を祈願して武田八幡宮に奉納した願文。願文の甲斐なくその14日後に勝頼公は夫人、息子信勝とともに自刃

勝頼公夫人願文・意訳。北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室HPより。同HPへ

勝頼公夫人願文・意訳。北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室HPより。同HPへ

武田の地名の由来は、「甲斐国史」では日本武尊の子・武田王が御殿を設けたこと。822年に空海の夢で八幡大菩薩が武田郷に出現したため神祠を構えたことが武田八幡宮の起源だそうです。

総門をくぐり舞殿を望む

総門をくぐり舞殿を望む

社伝によれば、822年に宇佐神宮もしくは石清水八幡宮の分霊を勅命によって移したのが武田八幡宮とのこと。

拝殿から見た舞殿

拝殿から見た舞殿

一方、清和源氏の流れを汲む源義清が常陸那珂郡(なかぐん)武田郷を本貫として武田姓を名乗ったのが武田の発祥で、義清父子が同地を追放されたため、孫の信義が甲斐国巨摩郡武田(現在の山梨県韮崎市)を本拠地としたことから、信義が甲斐武田の初代とされているそうです。

舞殿から望む拝殿

舞殿から望む拝殿

武田信義は武田八幡宮を武田氏の氏神とし、歴代の甲斐国司も造営を行ったのですが、戦国期に武田晴信(後の信玄)が1542年に嫡子の武田義信とともに武田八幡宮を再建したということです。

武田晴信再建による重要文化財の本殿。奥に県指定有形文化財の末社が見える

武田晴信再建による重要文化財の本殿。奥に県指定有形文化財の末社が見える

武田氏滅亡後の徳川時代となってからも徳川家康によって社領は安堵され、その後も必要な修理・修復が行われ、今に伝えられてきているとのことです。

武田氏ゆかりの行事・例祭も行われ、地域にとってもなくてはならない社殿となっているようです。

境内の石階段脇に群生していたギンリョウソウ

境内の石階段脇に群生していたギンリョウソウ

歴史に触れ写真をじっくり眺めてみると感慨もジワリ。またじっくりと訪れてみたいと思います。

参考

武田八幡宮HP

武田八幡宮 Wikipedia

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